2011-09-01

「エセ科学批判・批判騒動」についてのまとめ

kaokou11さんがある科学者のブログ記事に感じた疑問をツィートしたことに対し、攻撃的な返信を受け、更にそのやり取りを他の人の返信も含めてtogetterにまとめられ、批判され、かつメンションによる激しい攻撃にあったことは、多くの方がご存知と思います。この出来事について、何が起きたのか、問題点は何だったのか、解決するにはどうしたらよかったのかをkaokou11さん自身がまとめました。

最近ツィッター上でも視点の違いや価値観のズレを即否定するツィートを多く目にします。わたしたちの願いは、そういうものを超えて多くの人が手をつなぎ合うことにあります。このまとめは、「超える」ためのひとつのヒントになるのではないかと思いました。ひとりひとりがその「違い」を超えて、初めて連帯の輪ができるものと思っています。



「エセ科学批判・批判騒動」についてのまとめ

(前書き)

今回のツイッターでの「エセ科学批判・批判」騒動について、私なりのまとめと課題について書き留めておきたいと思います。ただし、これはあくまで私自身に 「何が起こり、問題は何だったのか、それに対する解決策はあるのか?」を考えるのためのまとめであり、この記事に関する議論や反論に応じるつもりはありません。 ツイッターで非難される事があっても反応しませんし、このサイトの掲示板に書き込まれた場合には趣旨が違うため勝手ながら削除させていただきます。


(前提)

まず、私の立ち位置については以下の通り。
①エセ科学と呼ばれているものを特に擁護してはおらず、使用してもいない。
②「チェルノブイリのかけはし」の活動については「長年放射能の被曝問題に関わってきた知見」と「ボランティア医師による出張健康相談」を高く評価しているが、全ての言動に賛同しているわけではない。
③鼻血や体調不良については、放射能が原因だとは断定していない。しかし自分と家族が経験した体調不良とほぼ同じような症状を多くの人が訴えて いることには注目している。もちろん、ストレスやその他の原因もあるかもしれないが、放射能も人体に決して良いものではない以上、現時点であり得ないと断言する必 要はないと考えている。


問題の発端となった私の最初の連続ツイートで言いたかったことは以下の2点だった。

・チェルノブイリのかけはしの活動の一部(エセ科学的な対応策を勧めている)を批難するために、活動全体に問題があると誤解させる記述は不適当だと考え る。たとえば、医療の専門家である医師や医療関係者による健康相談会は全く非科学的アプローチではない。ブログ主が主張してきた「不安なら医者に見てもら え」をまさしく実践してくれている活動ではないだろうか。この部分もまとめて「胡散臭い」とするならば、それはボランティアで参加している医師や医療従事 者に対しても失礼だと感じる。また、ニューエイジャーらしいという書き方で、全体的に怪しい団体という強調がなされているのも印象操作ではないかと懸念し た。私は、文章を読む時によく注意しなければいけないのは「真実」と「憶測や伝聞」などのあいまいな部分が混在していることによる「印象操作」や「ステレオタイプ化」であると考えている。

・鼻血や体調不良の原因については、今後医療専門家が考えるべき領域だと考える。ストレスや花粉症や幼児ののぼせなどの可能性もあるが、それ以外の可能性 を現段階で完全に否定するのは強引すぎるのではないか。母親は子どもの様子を一番身近で常に観察している存在である。鼻血にしても、以前から出しやすい子どもの 母親は、あまり気にしていない可能性が高い。また、鼻血などを不安に思う人達は、鼻血や今ある不調が怖いのではない。不安を感じているのは数年後、数十年 後の未来である。日本に住み続ける限り、これから長期間に渡って放射能や被曝と関わって生きていかなければならない。その結果がどうなるのか、最初の放射 能の大量流出が今後の避けられない被曝の蓄積とあいまってどのような結果をもたらすのか、に対する不安である。現在の被曝量ではありえないというのは、現時点だけを対象にした発言だと感じる。現在と未来という不安の在処の違い、つまり見ている所が全く違うわけなので、言及する意味を感じない。そもそも、エセ科学批判と 放射能の健康被害は全く別の問題ではないだろうか。エセ科学に引っかかる人=鼻血を気にする人=科学リテラシーのない人という扱いはあまりにも短絡的すぎる。

このような考えで連続ツイートをした。私にとってこのツイートは一個人の「読書感想文」的発言だった。誰が何を読んでどんな感想を持つのも自由でありそれを自分の感想としてフォロワーに向ってツイートするのも自由であると考えている。そして、1番重要なことは、私はこの考えについて、全く議論を望ん でいないということだ。仮に私の意見をブログ主に示し議論することを望んでいたならば、私は記事のコメント欄に意見を書き込んだか、メンションで相手に 伝えていただろう。


(問題)

その後の流れと引き起こされた結果がこの「まとめ」とそこから派生した攻撃的なメンションや様々な議論である。この一連の出来事の問題として次のいくつかの点が挙げられる。

「ディスコミュニケーション」の問題
・尋問口調や批判目的を予感させる態度がもたらす影響。
・対話 や議論に関しての基本的合意の欠落。
・問題意識の在処のズレ。

上記の理由から私は相手の言い分に直接関わる返答を避けている。私自身は私の考えが正しいと主張するつもりもないし、それを証明する必要性も感じていない。これは立場の違いと認識の違いから起因するものではないだろうか。もし私がアカデミックな現場で研究をしている立 場ならば、自分の言論に対するどのような議論も受けなければいけないのかもしれないが、私はもちろんその立場にはないし、研究者同士の作法に従わなければ ならないとは全く感じていない。

そして、一般的に人は尋問や批判などある種の圧力を感じさせる言動に対し、それをコミュニケーション開始の合図とは受け取らず防御態勢を取るものだ。なぜならそれらの圧力は外部からコントロールされる危機感を抱かせるからである。この外的コントロールは対人的ディスコミュニケーションの発生に大きく関与していると私は考えている。その辺りについては日本ではまだあまり馴染みはないが、ウィリアム・グラッサー博士の「選択理論」に説明されている。この理論はコーチングなどでよく使われている。

②ネットリテラシーとネチケットの問題
・twitterやtogetterの持つ性格による問題
・ネットにおけるルールやエチケットの合意の欠如
・匿名性

twitterには140字という制限がある。日常生活では常識的な挨拶や前置きを省き、いきなり本題だけを書き込まざるおえないケースが多い。賛同などの友好的なやり取りの中ではたいして気になならないことだが、批判や批難の場合はいきなり石を投げつけられるような失礼さを感じさせる可能性がある。またtogetterはいろいろな意見交換や連続ツイートを見やすくするためには大変便利な仕組みだと思うが、使用するツイートの発言者に対する最低限の礼儀は必要ではないかと考える。特に発言者同士のコミュニケーションが成立していない場合、その中心的な発言者以外の第三者とのやり取りをどこまで含めるか、意味の無い(発言者の意図している所と全くズレている部分)過剰な文字装飾による印象操作をするのかどうかについては、「まとめ」を作る人間の良識と誠実さが求められる部分である。

また、今回はその「まとめ」が元になって多くの攻撃的メンションが届けられ、精神的に追い詰められる結果となった。この問題にはネットの匿名性が関係しているように思う。私は以前から、交通場面における煽り、車間詰め、幅寄せ、威嚇的なクラクションなどの危険行為は、「車両」という守られた空間で、「他車」という人間をあまり意識しなくても良い状況における一種のいじめ行為の側面もあると考えてきた。車道は車に乗ったドライバーという人間同士が形成する交通社会である。舗道上の歩行者間ではめったに起きない威嚇行為が自動車間では比較的起こりやすい。これには自己と他者の顔が見えないことと車両空間というパーソナルスペースが完全に守られた環境にいる安心感が影響しているのではないかと考えている。実際、運転は非常に攻撃的だが会ってみると大人しく気の弱そうな人だったという事もあり大変興味深い。運転時の攻撃性には他にも色々な要因が考えられるし、状況が違うため同じ次元で比較する事はもちろん出来ないが、ネットにも自己と他者の顔が見えない(人という認識が低下する)ことと、自分が匿名である事により精神的な安全領域を維持しながら他者に対して攻撃を与えることが出来る安心感が影響しているように感じる。

さらに、京都教育大学の三枝好恵・本間友巳氏による「ネットいじめ」の実態とその分析 では、

「ネットいじめ」加害群で「その他」を選択した者に対して自由記述を求めたところ,「遊び半分」,「冗談,からかう感じ」など自分の快を求めるような理由と,「その人が嫌いだったから」,「むかついていたから」,「うざかった」など相手に対する不快感や否定的な感情を理由に挙げる者が多く見られた。これらの結果から,「ネットいじめ」は「従来型いじめ」よりも,その時々の感情的な気分に基づいて行われている可能性があるといえるかもしれない。

と指摘している。この研究は中高生を対象にしたものだが、大人であってもたいしてかわらないと今回の自分の体験から感じている。その根拠としては、攻撃的なメンションが送られてきた期間が「まとめ」が作られた直後から数日間であり、今は全く無くなっている事である。


(解決策)

それでは、最初に立ち返ってみて、どういうコミュニケーションならば成立した可能性があるのかを考えてみる。まず、相手に対して反対意見を持ってコミュニケーションをとろうとする場合 は、通常のコミュニケーションよりもさらに困難であるため、「まずは相手の話を批判的にではなく誠実に聞いてみよう」という姿勢で取り組むことが大切ではないだろうか。そして、どんなに意見の違う相手でも、「何を考え何を選ぶかはその人の自由であり、それを外側から強制的に変える事は出来ない」という認識で接することは相手が誰であっても必要である。 だから極力「自分は貴方の話をもっと良く知りたいし、貴方と違う考え方という私からの『情報』を提供したい。」というような、自分の主張だけを押し付けるのではなく、相手の立場や考え方を理解し尊重する姿勢は重要となるだろう。

実際、「まとめ」られた後でそれを見て私の考えに疑問を持った女性とは、考え方や意見は多分違うが、コミュニケーション自体は成立している。彼女とのやり取りは、彼女の「お気に入り」に 残されている。対話の始まりが「まとめ」られた後の攻撃的なメンションが届き始めていたタイミングだったため、私も最初から彼女に警戒心を持っていたが、彼女からは「純粋に自分とは考え方が違う貴方の発言の意図と背景がもっとよく知りたい」という気持ちが伝わってきたので、私も自分の考えを説明し、彼女の考えもきちんと聞くというやり取りが出来た。

一方、私の側の問題についても考えてみたい。私の最初のツイートは自分にとっては読書感想文程度の認識だったとは言え、怒りを感じて書き込んだため、攻撃的に 受け止められる文章であった事は否めない。インターネットに書き込んだ以上、一個人であっても世界に対する発言となってしまうため、望まない議論や攻撃を 避けるためには、もう少し婉曲に書くべきだったかもしれないと反省している。また、コミュニケーションを望まない相手に、誤解されている部分にだけは 答えておこうと考えたのは間違いだった。最初から全く反応しなければ、相手側に多少なりともコミュニケーションが成立したかのような誤解を与える事もなかったかもしれない。


最後に、これらの点を踏まえて今回の出来事から得られた教訓と、今後脱原発や放射線問題と向き合っていく私たちにとって注意すべきことについて考えてみたい。

まず、リスク認識(特に放射能問題や脱原発問題において)の違う家族や身近な人との間に対人的ディスコミュニケーションが起こっている場合、お互いのリスクに対する見積もり方、つまり何を最大のリスクと考えるかが根本的に違う可能性がある事を考慮し、過剰な批難や批判をしないことは重要だと思う。私のような母親にとっては、家族の健康被害が最大のリスクであり、最大限の防御をしたいと考えているが、たとえば私の夫の当初の最大のリスクは経済の崩壊だったように思う。私の不安も夫の不安も「家族を守りたい」というものであることは間違いない。違いは「健康的に」なのか「経済的に」なのかということだろう。つまり、何に対して1番責任を感じるのかという立場の違いによるすれ違いのケースが多いのではないだろうか。また、この問題を考えること自体がリスクとなって思考停止状態の人も多いかもしれない。

いずれにしても、批判的に接してしまえばコミュニケーション自体が成立しなくなる危険性が高い。相手の立場はそれとして認め、状況を見て友好的に話し合いを持つなどの働きかけによって、無用な衝突を避けお互いの理解に繋がる可能性が高くなる気がする。うちの場合は夫自身が体調を崩し、それまで一切見ようとしなかったネット上の放射能に関する情報を確認してくれて、それ以来放射能汚染に対する考え方を自ら変えてくれた。話し合いでは全く合意にたどり着けなかったが、「相手の状況を見ていろいろな情報を提供し、自分自身で考えてもらう」というのは、禍根を残さず理解を深めてもらう1つの方法かもしれない。

次に、ネットとの付き合い方についてだが、今の日本は平常時とは全く違う状況である。放射能汚染という先の見えない問題に見舞われ、国民は原発容認派と脱原発派と無関心派に分断され、平常心を保つ事すら難しいこともある。だからといって何を書き込んでも良いと言うわけではないが、怒りや不安、悲しみなどのネガティブな感情も「書く」という形で表現する事が孤立して絶望しないためには役に立つ事もあると思う。ただし、メンションという個人に向けての発言の場合は、相手もまた1人の人間であること、一方的な批判は生産的ではないことには注意するべきかもしれない。

また、議論についても専門家同士や慣れている方々には積極的に意見交換をして頂き、私たちに色々な考え方の違いを示してもらいたいと願っている。違う意見のやり取りを見せて頂く中で「私自身はどう考えるのか」を見直せるのはひじょうに有益だと考えている。ただ、私のように議論を好まない、議論する準備のない人間もネット上には多く存在していることを理解し、アプローチの方法については通常時よりも更に慎重に検討して頂けるとありがたいと思う。

以上


今回の出来事ではたくさんの方々に助けて頂いた事を心から感謝しています。
本当にありがとうございました。
@kaokou11